オーバーアチーブ
ふと我に返りました。
大学はどうなるのか (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/02/07_1629.php
大学を存続させる力は「世間がなんと言おうと、こういう教育を行いたい」とつよく念じるモラルの高い教職員たちのオーバーアチーブである。
教育の現場は「給料分以上の仕事(場合によってはその10倍、20倍分の仕事)をする人々」が一定数恒常的に存在することで保っているということを忘れてもらっては困る。
そういう人たちがまったく自発的に「給料分の仕事をしない」教職員(もちろん、たくさんいる)の不足分を補う以上のことをしているから教育現場は回ってきているのである。
ところが、「給料分の仕事を、Job description 通りの仕事をしろ」ということは、オーバーアチーブの機会そのものを奪うことになる。
そのリスクに対してビジネスマインドな人たちはあまりに無自覚である。
別にこれは教育機関に限ったことではないなと思います。
ビジネスを存続させる力は、「周りがなんと言おうと、こういうビジネスを行いたい」とつよく念じるモラルの高い経営者と従業員たちのオーバーアチーブであると思う。少なくとも当初はそうあるはず。
教育と違う点は、「こういうビジネスを行いたい」というつよい思いがある人の多くが従業員に留まっている状態にそもそもの矛盾があることと、ビジネスの存続には効率と発展の圧力が常にかかるので、総仕事量とそれに関わる頭数、必要なスキルセットが比較的一定しないところにあると思います。他にもたくさん挙げればあると思うけど。
効率を求めると、「給料分の仕事を、Job description 通りの仕事をしろ」となります。給料分あたりの生産量を上げるためにシステムに投資が行われ、そのシステムを稼動させるために Job description が作られ、システムの稼働率に応じて、Job description とそれに定義される人が増えたり減ったりします。
なので、ビジネスを追い続ける限り、「こういうビジネスを行いたい」という初志と、「どういうビジネスを実施すればいいのか?」という問いが常にせめぎあっている状態になってしまいます。
教育でもビジネスでも、「給料分以上の仕事(場合によってはその10倍、20倍分の仕事)をする人々」が一定数恒常的に存在することで保っているのは同じで、要はビジネスの場合、それが宿命として効率と発展を求める以上、アンダーアチーブでも大丈夫な仕組み(≒アンダーアチーブを一定数生産せざるをえない仕組み)と、オーバーアチーブを一定数恒常的に存在させる仕組みとを両方抱えないといけない。
教育の場合は効率とは本来無縁で、発展はある規模(世代人口と進学率)までに限られるので、ビジネスの議論をそのまま教育に応用しようとするから話がややこしくなるんですね。
ところで、冒頭でふと我に返ったと思ったのは、自分がオーバーアチーブしているかどうかは別として、労働する以上はオーバーアチーブを志向するものだろう常識的に考えて・・・と今まで考えていたんだけれど、どうもそうじゃない人の方が多いのは何でだろうと常々疑問だったところの答えが、氏のエントリを読んで何となく分かった気がしたからです。
それは、極端に言ってしまえば、発展は仕事量の増加と比例しないから、ということなのではないかと思います。
ビジネスが発展を求めることには例外がなくても、ビジネスが効率を求めてきた結果から、発展と仕事量が必ずしも比例しないことが増えてきて、仕事量がそれほど変わらない状態で人やシステムの変化だけがあった場合、それはオーバーアチーブできる人間が占めた仕事量の残りの部分を、オーバーアチーブできない人が分け合うことになる。
全体としては発展していて例えば一人あたりの売上高とかの指標が変わらない限りは問題にならなくて、アンダーアチーブは構造的に拡大再生産されていくことになります。
これはいい悪いの話ではなくて、もうそういうものなんだと。
だからいいとか悪いとかの文脈で腹を立てても仕方がない。
オーバーとかアンダーとかを、個人の責任の範囲で語っても仕方がない。
そんな感じで我に返ったのでした。


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